五日目。
二人は散策路があるそこまで大きくない山を歩いていた。
番神は昨晩、で自慰をしてしまったし、も番神の胸板を枕に眠るという夢を見てしまい、気まずい雰囲気の中歩き続ける。
なぜ山に来たのかというと丑寅と未との夕食の席で“夏水仙
体力の衰えも昨日砂浜を走って実感したし、すぐに戻るものでもないがとにかく体を動かしたかったのもあって登山をしているのである。
突然の提案にも二つ返事で付き合ってくれる番神はやっぱり優しい。
は先を行く背中との距離が開かないよう懸命に追いかけるが厳しく、弱々しい声で番神を呼んだ。
「ばんじっ……ちょっと、きつい……もっとゆっくり……」
足を止めて振り返る番神は、膝に手をついてはぁはぁと短く喘ぐを目に入れる。
紅潮した頬を流れ落ちる汗、眉をひそめた苦しそうな表情――意味深にも捉えられる言葉が昨晩の夢と重なり、番神は近くの樹の幹に額を打ち付け始めた。
「えぇぇ?」
キツツキでもあるまいし、いきなり額で樹を叩く彼の奇行に困惑を隠せない。
一体どうしてしまったのだろう。
が近づくと番神は幹に額を押し当てたまま、瞳だけ動かして彼女を見据えた。
「ちょっと額を鍛えようと思ってな」
「今やること?」
「俺は思った時に実行する男だ」
「そうだったの……」
は複雑な面持ちで番神を見つめる。
今額を鍛えたいのならそっとしておいたほうが番神のためだ。
は自身に言い聞かせ、一人でウンウンと頷く。
そして番神を追い越し、数歩進んだところで散策路の脇に桃色の花を見つけてしゃがみ込んだ。
「番神、来て来て!」
「あったか?」
「うん!」
額を樹に打ち付けるのを辞めて、番神はの元へ向かう。
彼女の視線の先には喇叭
「これ、彼岸花じゃねぇの?」
色は違うが形は秋によく見かける深紅の花に似ていた。
は番神の言葉に頷く。
「彼岸花の仲間で“夏水仙”って言うんだって。番神がくれた手拭いのウサギと一緒!」
は懐から手拭いを出し、手を伸ばして夏水仙の近くに掲げた。
その顔はとても嬉しそうで、自然と番神も穏やかな笑みを浮かべる。
気まずさは消え去った穏やかな空気の中、ぐぅぅと番神の腹が鳴った。
「おむすび作ってきたから食べよっか」
「マジか!ありがてぇ」
近くに転がっている苔むした丸太を見つけ、二人はそこに腰を下ろした。
は肩掛胴乱から竹皮の包みを取り出し、番神に手渡す。
「おー、美味そう」
「普通だよ」
包みを開き、三つ並んだおむすびを見て喜ぶ番神。
そんな彼に苦笑を漏らし、ももう一包み取り出して開いた。
の包みにもおむすびが三つ並んでいる。
「あ、こっちからもう一つ食べてね」
「お前足りるのかよ?」
「二つで充分だよ……」
「じゃぁもらうわ」
すでに一つ平らげていた番神は、指についた米粒を舐め取り、の包みから一つ取る。
いつもより涼しい山の中で、木の葉のさざめきを聞きながらの昼食は格別に美味しかった。
六日目。
番神と組手の最中にはぼんやりしてしまい、彼の拳を額に受ける。
「お、おい……大丈夫か?」
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
番神は本気ではなかったがうっすら赤くなったの額に心苦しくなる。
組手が終わってからもは気もそぞろで空返事ばかり。
昼食の“かれぇ”を食べている時もほとんど笑わなかった。
時折、悲しそうな笑顔を見せるにいたたまれなくなった番神は、用があると嘘をついて彼女と別れた。
(俺、何かやらかしたのか?!)
別荘の中庭で両手に壷を持ったはよいが悶々と考えてしまい、立ち尽くす。
その様子を木陰から水パイプをくゆらせて瓢湖は暇つぶしに眺めていた。
見られていることに気づかず、番神はウーウー唸りながら右へ左へ歩き始める。
瓢湖も動きに合わせて黒目を動かし、ふーっと煙を吐き出す。
番神はピタっと足を止め、昨日のことを思い返す。
自分が何かやらかしたのならあの日しかない。
うーんと朝から順を追って思い出すも別れ際のはにこにこ笑っていて、特に何か不満があったようには思えなかった。
(ならその前……)
そこで番神の手は緩み、地面に二つの壷が転がる。
そう、山に行く前日の晩、自分はをオカズにしてしまった。
もしかして──
「俺は臭かったのかァ?!」
烏賊のような栗の花のようなあの独特の臭いがして、そのことを丑寅か未に話し、自慰をしたことを知ったのだろうか。
崩れ落ちてウォォォォォと雄叫びを上げる番神。
それを傍観していた瓢湖は、今日の彼は面白いなぁと呑気に思った。
七日目。
重い足取りで番神はの元を訪れる。
をオカズにしたことはバレてはいないが、自慰をしたというだけで軽蔑されていたらと思うと暗鬱としたため息が漏れる。
悲しそうに見えた笑顔だって本当は憐れんで笑ったのではと勘ぐってしまうほどだ。
(だーっ!クソッ!!)
番神は両頬をパン!と叩いて気合いを入れる。
こんなウジウジしたのは性に合わない。
腹を割って正直にに話し、ごめんなさいをしよう。
そう決意を固め、番神は医院の庭に入る。
は読書の途中だったのか開いた本を膝に乗せ、木陰でまどろんでいた。
起こさないように忍び足で近寄り、音を極力立てずに隣に座る。
閉じられた瞼は先日のように少し腫れぼったく、また恋愛小説で泣いたのかと番神は人差し指の背でそっと撫でた。
「う、ん……あれ?番神?」
「ウッス!」
「ふふ、ウッス!」
番神の返事にの唇は弧を描く。
今日は番神の好きな笑顔を見せてくれてひとまず安心した。
しかし、はその後、何も話さずに少し遠くの地面を見て手元の本を指先で弄り続ける。
やはり様子がおかしい。
番神は深々と息を吸って覚悟を決めた。
「なぁ、腹割って話そうぜ。昨日から変だしよ……」
「……気づいてたんだ」
「誰だって気づくだろ」
「そっか……番神、あのね」
「ん?」
まずは自分からと思っていたがが切り出したため、番神は聞き手に徹することにする。
は番神をじっと見つめ、何度か口を開いては噤み、一瞬泣き出すのではないかと思うほど顔を歪ませてぎこちない笑顔を浮かべた。
「私、明後日、東京に戻るんだ」
「……」
「ほら、怪我が治ってるからさ、もう帰らないと」
「……そうか」
「うん……ごめんね、言い出せなかった。ごめんね……」
番神のことを見ていたいのにこれ以上見ていたら涙が零れそうでは俯く。
数秒の沈黙。
番神は沈痛な面持ちのを見つめ、口を開いた。
「明日、横浜観光しようぜ。全然街とか行けてねぇし」
「うん……いいかも」
「最後になるだろうし、お別れくらいは笑顔で……な?」
「っ──うん、明日観光するなら今日は荷造りしないと。わざわざ来てくれたのにごめんね」
「いいって。じゃぁ、明日の九時半に迎え来ていいか?」
「うん」
の同意を得ると番神は立ち上がる。
もそれに倣って立ち上がり、二人は別れた。
医院の割り当てられた一室に入り、扉を閉めたは喉を振るわせて嗚咽を漏らす。
番神の口から出た“お別れ”の言葉が棘となって胸に食い込んでいた。
どこかでまた会ってくれるんじゃないかと勝手に期待していた。
「ぅっ……うぅ~っ……」
昨晩も番神を想ってたくさん泣いたのに涙は涸れることなく次から次へと溢れて零れ落ちる。
明後日から番神と逢えない。
人懐っこい犬みたいで、底抜けに明るくて、いつも前向きで、時々ひどく優しい表情で見つめてきて。
まだ知り合って七日しか経っていないのに気づけば彼に惹かれていた。
鼻血を出しながら少しずれたことを言ったり、本を読んですぐ寝たり、一緒に“あいすくりん”を食べたり、海では転びそうになったところを助けてくれたり。
二人で夏水仙を見て、ただ握っただけのおむすびを美味い美味いと言いながら食べてくれた。
番神と過ごした日々は楽しくて幸せで、その分、別れが辛い。
ぼたぼたと落ちる大粒の涙は服に濃い染みを作る。
この涙と一緒に番神への気持ちも流れればいいのに。
いつの間にかするすると心の中に入り込んだ彼は、出て行く気配を見せない。
「番神……好き……す、きっ……」
抑えきれない番神への想いを口にすれば、耳から入ってきて否が応でも自覚させられる。
こんなに辛いのなら番神と出会わなければよかった。
横浜になんて来るんじゃなかった。
は両手で顔を覆い、一人きりの部屋で手のひらを濡らした。
別荘に戻った番神は食堂で頬杖を突き、並べられた食事には手をつけずにぼーっと天井を見つめる。
向かいでカチャカチャ食器を鳴らす瓢湖はナプキンで口を拭き、訝し気に番神を見やった。
同席している縁と鯨波も静かすぎる番神を少々不気味に感じていた。
ここ最近、昼時には姿を消していたのに珍しく顔を出したと思えばこの有様。
先日から番神の様子はおかしかったし、今日も何かあったに違いない。
けれど番神に対して詮索をしようとする者は皆無だった。
利害の一致でともにいるだけで基本興味がないのだ。
食事を再開するかと瓢湖が食器を持ったところで番神から声をかけられる。
「なぁ瓢湖、着物貸してくれねぇか」
「は?なんだ急に」
いつも変な胴着しか着ていないのになぜいきなり着物なんだと瓢湖は眉間を寄せた。
そもそもこの男に着付けができるのか。
「君は服装を気にする質じゃないだろう」
「うるせぇな。明日は街に行くんだよ」
「なぜ街に行くからといって着物なんだ」
「一人じゃねぇからに決まってんだろ!」
「女かよ」
「女性ですカ」
「女か」
ムキになってバンッとテーブルを叩いて立ち上がる番神に、三人の読みが揃う。
番神はぐっと息を詰まらせ、椅子に座り直すとぽつりと呟いた。
「明日で逢うのが最後だから……最後くらいはシャンとしてぇんだ」
どうやら番神は恋の成就を果たそうとは思っていないらしい。
それでも目には悲しい色が宿っていて、瓢湖は呆れたようにため息をついた。
「あとで取りに来い」
緑の着物はあっただろうか。
向かいから注がれる喜色のこもった視線を無視し、瓢湖はスープを口に運んだ。