檻の中でがくれた絵葉書をぼんやりと見る。
絵葉書には“この日だよ、忘れないでね”ととっくに過ぎてしまった日付と“新橋駅”の文字、それと俺への気持ちが綴られていた。
書いているうちに余白がなくなって尻すぼみに小さくなっていく文字と文末に添えられた下手くそなウサギの絵が愛しくて指で撫でる。
夜の神谷道場で再会したは今にも倒れそうなほど真っ白い顔をしていて、俺は何も言えなかった。
俺とトリ頭の間に割って入って「私と先に戦って」なんて言って放ってきた拳は、横浜にいた時よりも勢いがなくて力も入っていなくてとても弱かった。
それでも俺は殴ることも蹴ることも出来ず、攻撃を捌きながら瞳に涙を溜めて真っ直ぐにこちらを見るを見つめ返すだけだった。
ついにがぐしゃりと顔を歪めて溜まりきった涙が頬を濡らした時、堪らず俺は細い腕を掴んで抱き寄せた。
周りに誰がいようが関係ねぇ。
辛そうなの表情をこれ以上見ていられなかった。
番神、番神と俺の名前を呼んでは声を上げて泣いた。
俺はを抱きしめて、なんでお前は“そっち”側にいんだよなんて思っていたけれど、は俺に出会う前から――最初から“そっち”側だった。
横浜で聞いたが世話になっている道場が“ここ”で、東京の知人は“こいつら”で。
とても楽しそうに話すを見て、大事な奴らなんだなって思っていたからこそやりきれなかった。
けど、ここまできて後には退けない。
体を離してしゃくり上げるの頬を手で拭い、そして思い切り突き飛ばした。
呆気に取られた顔のが後ろ向きに倒れるすんでのところでトリ頭が受け止めて、触れたことは許さねぇがに怪我を負わせなかったことは感謝してやった。
は喉が枯れるんじゃねぇかってくらい大声で俺の名前を呼んで、やめて、戦わないでと懇願していた。
また俺に食ってかかりそうなは女二人に取り押さえられていて、どうかそのまま押さえててくれと思い、トリ頭との距離を詰めた。
両腕がぶっ壊れて横たわる俺のそばに座って、はずっと泣いていた。
その涙を拭いたくて傷が悪化しようと構わず、感覚のない腕を動かして小さな頬に触れる。
涙は拭えたけれど真っ白い肌に俺の血がべったりとついて、あぁやっぱり彼女を汚してしまったと後悔した。
女が一人死んで、顔から一切の表情を消したは、捕縛される俺のことなんて見向きもしなかった。
檻の中で目が覚めて夜が来るまでずっとのことを考える。
同室の三人から足を引っ掛けられて転ばされようが飯をひっくり返されようがどうでもよくて、明らかに俺より弱いやつらを相手にするくらいならと過ごした横浜の日々を思い返す方が有意義だった。
毎日隅っこで膝を抱えて海の絵葉書を眺める。
俺の胸を興味深そうに触っていたは、とても可愛かった。
との思い出を一つ二つと辿っているうちに眠っていたようで、目が覚めると持っていたはずの絵葉書がなくなっていた。
慌てて辺りを探していたらいきなり二人から両腕を掴まれて、床にうつ伏せの状態で押さえ込まれる。
以前なら二人分の体重がかかっていても振り解けたのに、完治していない腕じゃ抜け出せなくてもがいていると、残りの一人が俺の前に立って絵葉書をちらつかせた。
ザァっと血の気が引く。俺になら何をしてもいい。ただその絵葉書だけは――
そいつは馬鹿にした声色でが綴った俺への気持ちを読み上げて、三人でゲタゲタ下品に笑った。
返せよクソ野郎、ブッ殺すぞ、といつもやられっぱなしの俺が歯向かったのが気に障ったのか、後ろから髪の毛を掴まれて床に顔を打ち付けられる。
鼻っ柱がじぃんと痛んで奥からどろりと熱い液体が流れ出てきた。
鼻血を出した俺をせせら笑い、クソ野郎が絵葉書を横向きにして見せつける。
そして俺が辞めろと言う間も与えず、ビリッと紙が破ける音がして、からの絵葉書が真っ二つになった。
それだけでは飽き足らず、二つになった絵葉書を重ねて破りを繰り返し、紙吹雪のように部屋中にばら撒く。
そこから先のことは覚えていない。
「死ね!死ね!!このクソ野郎!!おっ死んじまえ!!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!」
俺は絵葉書を破いた男に馬乗りになって顔面を殴り続けていた。
口から出ている言葉はそいつに向けてなのか、散々を傷つけた自身に対してなのか――恐らくその両方だ。
男の歯で指を切ろうが、治っていない腕が軋もうが、俺は殴り続ける。
恋文をもらったのは初めてだった。
以前の女なんて大体行きずりの関係で、酒を飲んだ翌朝にお互い素っ裸で布団の中にいたり、最初は体だけが目的だったくせに後から色々求めてきて面倒くせぇから即切ったりと、ろくな付き合いをしてこなかった。
が俺と同じ徒手空拳の使い手で話が合って、男に奢られることが当たり前だと思っているはすっぱじゃなかったから、俺の内面を見てくれていた気がして彼女と過ごすのは楽しかった。
いつも化粧なんてしてねぇのに横浜の街へ行ったあの日、わざわざ俺のために化粧をしてくれたのかなんて勝手に舞い上がって、自分のために化粧をして男を誘うことが当たり前の売女しか知らない俺にはひどく新鮮だった。
別荘に戻って明かりの下で初めて絵葉書を読んだ時、嬉しくて嬉しくて何度も読み返して、絵葉書ももずっと大切にしようと思ったのに。
それをこいつは破きやがった。
ここに来てから大人しい俺をやたらと気にしていた看守が他の看守を連れてくるまで、俺はピクリともしない男を殴り続けていた。
看守達がやってきて絵葉書の破片が風圧で舞うから、殴るのを辞めて血塗れの手でかき集める。
と一緒に居られないならせめて贈ってくれた気持ちだけはそばに置いておきたかった。
散らばった絵葉書を集めていると、不意にとの仲が引き裂かれたように思えてぼろぼろ涙が零れた。
いや、誰も引き裂いてなんていない。
俺が壊した。
ここに入る前から、自らの手でとの関係を壊していた。
あの三人は大怪我をしたものの死んではいないから俺の刑期は一年延びただけだった。
三人もやっておいて一年で済んだのは、あいつらが他の受刑者に嫌がらせをする常習犯だったかららしい。
そんなやつと同室にしてんじゃねぇよ。
看守が「辛かったな」と言って渡してきたのは糊で繋ぎ合わされた絵葉書だった。
ところどころ文字とウサギの体が欠けてしまったそれは、の今の気持ちに思えてどうでもよくなった。
その日から絵葉書を見るのは辞めた。
世話焼きの看守から外にでも出てこいと言われて、のろのろ腰を上げる。
と離れてから三度目の夏だった。
なんでこんなにあちぃのに外に出させんだクソが。
少しでも涼しいところへ行こうと中庭に行くと、桃色の花が片隅に咲いていた。
と見た彼岸花に似た夏なんとか。わざわざこんな花を選んで植えたのか。
俺はその花の前に立つと足を振って桃色の花弁を吹っ飛ばした。
宙を舞う桃色の花弁は、に贈った手拭いの跳ねるウサギに似ている。
散れ散れ。散っちまえ。二度と俺の前に現れるんじゃねぇ。
真っ直ぐに立つ緑色の茎を何度も何度も踏みつけて、ぐしゃぐしゃと地面に擦りつけた。
絵葉書すら見ずに過ごす俺が気になるのか、お節介焼きな看守が何か欲しいものはないかと聞いてくる。
欲しいものと言っても放浪の身だった俺に、差し入れを持ってくるやつはいない。
そんなことは看守もわかっているはずなのに返事を待っているから、ふと頭に浮かんだ一冊の本を言ってみる。
看守は「あの本はいいよな」と笑うけど知らねぇよ。
一頁も読めずに寝ちまったんだから。
翌日、看守はが読んでいたのと同じ本を渡してきた。
パラパラと頁を捲ってあの日全く読めなかったの好きな話を見つける。
頑張って読もうとするけど目が滑るし、やっぱ眠くなってきた。
どうやったら最後まで読めるか考えて、ちょっとばかし恥ずかしいが俺とに置き換えてみる。
すると少しずつ読めるようになって毎日二頁、調子がいい時は三頁読んだ。
十日くらいかけて読み終わる。
敵同士だと知らずに好き合った二人は最後は離れ離れになって、俺とも最初からこうなると決まっていたように思えた。
こんな結末になるのなら横浜で過ごしたあの時間が無駄だったように感じたが、の憧れていた恋愛になったならよかったのかもしれねぇ。
これで俺もちったぁ“浪漫”の分かる男になれたのかな。
もう何度目の夏かわからないが、出所した俺は牢獄に背中を向ける。
これからどうしようか。
行くあても待ち人もなく、昔と何ら変わらないはずなのになんで虚しさを感じるんだ。
これから秋になる。まずは南にでも行ってみようかと歩いていると
「番神、新橋駅はそっちじゃないよ」
背後からずっとずっと聞きたかった女の声がして、足が止まった。
「今日、何日か忘れちゃった?新橋駅で会うって約束してた日だよ」
もう日にちなんざ数えてねぇんだよ。
「忘れないようにって絵葉書に書いたのに」
ぼろぼろになってから見なくなったからしかたねぇだろ。
「ほら番神。一緒に駅まで行こうよ」
馬鹿か。行けるわけがねぇ。
あんなに傷つけて、泣かせて、俺のことなんか待たなくてよかったのに待ちやがって……。
他の男と懇ろになって、幸せに暮らしてくれた方がよかった。
花ざかりだったの時間を俺が無駄にさせたと思うと罪悪感が重くのしかかってきて、一緒に行くなんて出来ない。
を無視して数歩足を進めると、震えた声で名前を呼ばれた。
| 欲張り、嫌い? | |
「私のこと、嫌い?」 | |