縁が剣心へ十日後が本戦だと宣言した翌日、番神は日課の鍛錬に勤しみながらも物足りなさを感じていた。
今までは道中で他人とやり合うことが出来ていたが、縁から呼ばれて横浜に来てからは手合わせをする相手がいないことに気づく。
瓢湖はぷかぷか水パイプを吹かしているし、八ツ目は天井裏から出てこない。
外印は地下室に篭り、鯨波と縁はどこにいるのかわからない。
「あーぁ……退屈だぜ」
重り代わりの壷を置き、大きくため息をついた。
身の入らないまま鍛えても意味がないような気がする。
番神は鍛錬を切り上げ、気分転換に散歩でもしようと別荘と出た。
どこに行くあてもなく、ぶらぶらと適当に散策する。
横浜に来てからは人誅のための計画を練って実行し、なんやかんやバタバタしていたため今日のような時間を持て余す日は初めてだった。
適当に勝負でも挑もうかと頭をよぎったが異人が多いし、行き交う日本人もひょろひょろとした者ばかりで怪我でもさせたら番神が捕まってしまいそうだ。
(それなりに動けて、警察沙汰にならなそうなやつ……)
そんな物騒なことを考えて歩いていると開けた場所に出る。
近くに医院が建っているため、その敷地に入ったのかもしれない。
そして医院からそう遠くない場所で一人の女性が“型”を確かめていた。
空手か柔術か、それとも混合か――なにはともあれ彼女なら自分の相手になりそうだ。
そう思った番神は逸る気持ちを抑えきれずに大股でズンズンと近づいていく。
「おい女ァ!俺と勝負しろ!!」
「……?」
いきなり現れた番神の言葉に彼女は動きを止め、きょろきょろと辺りを見回してから自分を指差す。
番神はそれに頷き返して彼女の前に立った。
しかし、彼女は困ったように眉を下げて口を開く。
「すみません、療養に来ていて激しい動きはあんまり……」
「はァ?!そんなんじゃ鈍るだろ?!」
「間に合ってるんで……」
「そこをなんとか!頼む!一回だけ、一回だけでいいから!!」
「えぇ……」
筋骨隆々の男が手を合わせて頭をぺこぺこ下げてくる。
周りには誰もいないのだが、二人きりだとしても見知らぬ人から頭を下げられるのは居心地が悪い。
それにこの手の男はこちらが承諾するまでごねるに決まっている。
はじめから拒否権など用意されていないのだ。
適当に相手をして終わらせよう。
そう思った女性──は小さく頷いた。
「わかった!わかったから顔上げて……!」
「本当か!?」
が承諾したことが余程嬉しかったようで、顔を上げた番神は瞳をキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべる。
その姿はまるで飼い主に褒められて尻尾を大きく振る大型犬のようだ。
ここまで喜ばれると手を抜くだなんて忍びなくなってくる。
曲りなりにもだって武闘家。手加減手抜きをされた悔しさは痛いほどわかる。
本調子ではないが、彼とは真摯に手合わせしよう。
肩をぐるぐる回している番神と間合いを測り、向かい合った。
「うっし!かるーくいくからな!かるーく!!」
「うん……」
「“無敵鉄甲”の戌亥番神!いくぜオラァ!!」
あ、やっぱり犬なんだと思い、も名乗ろうとしたが、そんな暇を与えずに番神は駆け出した。
蹴りか拳かと身構える。
しかし、番神は前方に跳んで地面に両手を突くと逆立ちになり、後転するかと思いきや地面を押した勢いでにつま先から突っ込んでいく。
初めて見る独特な蹴り技を受け止めることは難しいと判断し、は敢えて番神へ向かって走った。
弧を描いて低空を飛ぶ番神の真下に滑り込み、辛うじて避けることができた。
(こっわぁ……あんなの受けたら骨折しちゃう)
筋肉の塊が、その筋力から生み出された瞬発力でぶつかってきたら自分の細腕はポキリと綺麗に折れてしまう。
どこが軽くなんだと思っていると、地面に着地した番神は不服そうに唇を尖らせた。
「受け止めろよ」
「無理!!受けたら腕折れちゃうし、足は治療中だから踏ん張れないし……それにどこが軽くなの?!」
「あっ」
「『あっ』!?」
「わりぃわりぃ!」
「……」
自ら『かるーく』とか言っておいてすぐに忘れていたようで、はじとっと半眼で番神を見やる。
鉢巻から覗く眉はハの字に下がり、苦笑を漏らす彼は感情が表に現れる正直な人柄なのだろう。
これ以上責める気にもなれず、はため息をついた。
「蹴りはなし!で、組手にしようよ」
「お、いいぜ!打ってきな」
「わかった」
気を取り直してお互い先ほどよりも近い距離で向き合う。
は二、三度深呼吸をし、右の掌底を番神に繰り出した。
それを番神は左腕で受け止めて拳を放つはずが、動きが染みついてしまっているのかを掴んで投げ飛ばす。
「っ?!」
景色が一回転し、背中から着地したは、肺が詰まったように一瞬呼吸ができなくなる。
組手だと言ったのになぜ投げるんだ、とさすがにイラっとしてきた。
「わりぃ!つい癖で……ぐぅっ!!」
体を起こしたに駆け寄る番神だったが、苛立った彼女の右拳を顔面に受けて呻いた。
「組手って言ったでしょ!あなたバカなの?!」
「いや、本当につい癖で……」
「わっ、鼻血出てる!」
傍らに膝を立てる番神の鼻から真っ赤な液体がとろりと垂れて芝を赤く染める。
とっさには袂から手拭いを出して彼の鼻に押し当てた。
そんなに強く殴っていないのに鼻血を出させてしまい、の胸にチクチクとした罪悪感が生まれる。
投げられたとはいえ故意ではなかったようだし、わざわざ駆け寄って来た彼に不意打ちを食らわせてしまった。
「ごめんね」
が手拭いを当てたまま謝ると番神はきょとんとした顔でパチパチと瞬きをする。
そして少し考え、呑み込めたのか「あぁ!」と声を上げた。
「いいっていいって!俺なんでかいつもバカって言われんだよなァ……でも前向きだから気にしてねェ!」
殴ったことに対する謝罪だったのだが、番神はバカと言われたことに対してだと思ったらしい。
なぜバカと言われるのか少しは気にした方がいいし、彼の前向きすぎる思考が面白くては我慢できずにケタケタ笑い声を立てた。
厳つい見た目にそぐわず、中身は素直で単純で少しずれていて──
(ちょっと可愛いかも)
第一印象が大型犬ということも相まって彼が可愛らしく見えて来た。
くすくすと忍び笑いをするに代わって手拭いで鼻を押さえ、番神はひたすら当惑するのだった。
の笑いも治まって、二人は同じ樹の幹に背をつけて座り、木陰で涼を取る。
鼻血が止まった番神は、赤い斑模様のついた手拭いを広げて掲げた。
「汚しちまった……」
「いいよ、それ捨てといて」
彼女の言葉に明日新しい手拭いを渡そうと思い立ったところで、番神は名前を知らないことに気づいた。
「そういや名前、聞いてなかったな」
「あぁ……私は辰巳」
「辰巳!?」
「え、うん。どうかした?」
「あー……俺の師匠の名前が辰巳で……」
「え!?なんか凄い縁だね!あ、他に凄いって思ったことがあって……“いぬい”ってこの字で合ってる?」
そういうとは短い枝を手に持ち、地面に“戌亥”と書く。
番神がそれを見て「合ってる」と答えると、次には干支の“子”から右回りに“丑”“寅”と順に書いて干支でぐるりと円を作った。
「ここが“戌亥”でしょ。向かいに“辰巳”がいて……ね、凄くない?!」
「うわっ、マジじゃねぇか!!よく気づいたな」
「えっへん!……番神は“辰巳”に二回も会ってるけど、それってどのくらいの確率なんだろう」
「俺、そういう難しい話は無理だわ」
番神の深刻そうな声には再びケラケラと笑う。
だって正確な確率などわからないし、「かなり低いだろうな」とかその程度の返事でよかったのに、存外番神は真面目らしい。
笑いすぎて滲んだ涙を指で拭い、やけに静かな隣の彼を見るとムスッとした表情でこちらを見ていた。
「ご、ごめんね。番神って意外と真面目だって思ったらおかしくて」
「俺が真面目で何がおかしいんだよ。時間だってきっちり守るぜ?時間を守れねぇような奴は信用ならねぇし」
直近時間絡みで何かあったのか、番神は苛立ちの色を浮かべる。
確かにも時間を守らない人は苦手だ。
ここまで時間にこだわっているのなら番神は遅刻をしないのだろう。
やっぱり人は見た目じゃないなと反省するのと同時に、もっと彼のことを知りたい欲求が芽生えた。
一言二言と言葉を交わしていると医院の外壁に埋め込まれた時計が鳴り、二人に十二時を報せる。
「いつも聞こえてたのはこの時計だったんだな」
「音大きいよね。番神のところまで聞こえるんだ」
「おう!横浜に来てからこの音が聞こえると何食おうかって思うぜ」
「ふふ、今日は何にするの?」
「今日……」
の問いに番神は少し思案したのち、彼女をじっと見つめた。
「なぁ、飯食いに行かね?」
「えっ……いいの?」
「悪かったら最初から誘ってねぇよ。ほら、行くぜ」
立ち上がった番神に手を引かれ、も立ち上がる。
番神は手を離すと二カッと笑って、来た時と同じくズンズン歩き始めた。
もしかしたら彼の行きつけの店に連れて行ってもらえるかもしれない。
出会ったばかりではあるが番神は婦女子に不埒なことはしそうにないし、仮にひと気のないところへ行こうとするのなら即座に逃げればいい。
はそう決めて、距離の開きつつある大きな背中へ小走りで駆け寄った。
番神は特にひと気のない場所を歩くわけでもなく、が時々小走りをしていることに気づくと歩く速度を落としたりとむしろ優しかった。
そして着いたのは少々年季の入った定食屋。
昼時とあって人の入りは多く、賑やかだったが客のほとんど──というより以外は男性であった。
「ここ、けっこう美味ぇんだけどは……」
と言いかけて番神はハッとする。
横浜に来てからここに通っていて自分は気に入っている店ではあるが、ご覧の通り外観は汚く、ちなみに中も綺麗とは言い難い。
客も男性しか見たことがなくて女性には不向きなのではと今更気づいたのだった。
(けど他の店を知らねぇ……!)
もしかしたら彼女の方が横浜に詳しいかもしれないと番神はへ視線を送る。
ちょうども番神を見ていて、彼女は喜色満面の笑みを浮かべた。
「私、ここ来てみたかったんだよね!でも勇気が出なくて……楽しみー!」
「そ、そうか!」
「うん!入ろ入ろ!」
よっぽど楽しみなのか今度はが番神の手を掴んでぐいぐいと引っ張る。
店内はやはり綺麗とは言えなかったが、は気にしてなさそうだ。
「食いたいのあるか?」
「んー、迷っちゃうなぁ……番神のおすすめとかある?」
「おすすめ……“かれぇ”はどうだ?」
「“かれぇ”!食べたことない!あのいい匂いのやつよね?」
「そうそう、俺は定食にするから“かれぇ”が合わなかったら交換しようぜ」
「……番神って優しいよね」
「は?普通だろ。それに俺が連れて来たからな」
「えへへ、ありがとう」
えへへってなんだこいつ可愛いな、と思いながら、番神は二人分の食事を注文する。
食事が運ばれるまでの間、二人はお互いの出身地やいつから武芸を始めたかなどとりとめのない会話に興じた。
その中でが驚いたのは、番神が大阪府出身だということだった。
あまりにも訛りがないので目を丸くしていると、番神は落ち着かず、もぞもぞと体を動かした。
「そんなに意外かよ」
「うん!ねぇ『なんでやねん』って言ってみて」
「ぜってぇ言わねぇ」
「えぇぇ、なんでぇ~?」
「そっちが先に方言で何か言ったら考えてやってもいい」
「んーと、んーと……番神は横浜でなんしようと?」
「くっ……!」
方言を絞り出すために悩んだのか困ったような顔で小首を傾げる。
このむさくるしい空間だと番神の目には余計に可愛らしく見えてしまい、口から呻き声が漏れた。
横浜に来た理由を方言で返せばよいのだろうか。
しかし、大阪は訛りが抜けるほど昔に出ているため上手く話せる自信がない。
うぅんと頭を抱える番神を見て、は眉を寄せた。
「ねぇ『なんでやねん』は?」
「横浜に来た理由じゃねぇのかよ」
「え、そんなこと聞いてた?いやぁ方言なかなか出なくて何て言ったか覚えてないや」
「……なんでやねん」
「ぷっ……全然似合わない……!」
彼女の間抜けな返事に呆れつつ所望する言葉を贈れば笑われてしまい、番神は苦虫を噛み潰したような顔でお茶を飲んだ。
「“かれぇ”美味しかったー!!」
「意外といけるよな」
「ね、びっくり!てか何で番神が払うの?!」
食事を終え、店を出た二人は昼食の美味しさに満足しながら歩いていたが、は番神が二人分支払ったことが気に食わず、頬を膨らませた。
ぷりぷりと怒っているが代金を渡そうと財布を取りだすのを店内同様に制し、番神はフンと鼻を鳴らして先を歩く。
背後でがぶーぶー言いながらぽかぽかと背中を殴っているが相手にせず、無視を貫いた。
ただでさえ男ばかりの店でちらちらと盗み見されていたのに折半だなんて番神の自尊心が許さなかったし、もとより女性にお金は払わせないようにしている。
しかし、『男は外、女は内』に該当しないは、奢られたことが不満でしかないのだろう。
このまま放っておいても彼女の機嫌は直らないと判断し、番神は足を止めて振り返った。
「礼だよ、礼!」
「礼ってなんの?」
「手合わせ」
「ほとんどしなかったじゃない!」
「チッ……じゃぁ投げちまった詫びな」
「今思いついたでしょ」
「うるせェ!!」
ああ言えばこう言うに怒鳴り、番神はスタスタと歩き始める。
そんな彼に駆け寄って隣に並んだは、自分より頭一つ分上にある番神の顔を覗き込んだ。
「番神、ありがと。ごちそうさまでした!」
「おう」
最初から素直に受け入れればいいのにと思ったが、彼女の気遣いは不快ではなく、番神は口角を上げて笑った。
再び医院の庭に戻った二人は夏の日差しを避けるため、木陰で歓談に興じる。
最もがぺちゃくちゃと喋り、番神が相槌を打つことが多かったが。
三十分ほど話していたところで医院から一人の女性が出てきて遠くからを呼んだ。
「ちゃーん!診察の時間よー!」
「あっ、はーい!……診察、忘れてた」
先ほどとは打って変わってしゅんと萎れる。
番神はそんな彼女を見て首を傾げた。
誰だって怪我を早く治したいと思うはずだ。治療が辛いのだろうか。
は隣の番神を不安そうな表情で見つめた。
「ねぇ、明日も会える?」
「っ、」
の求めてくるような瞳に一瞬息が詰まる。
まさか自分のことで気落ちしているとは思わなかった。
速まった鼓動に急かされ、番神は頭を押された赤べこのようにコクコクと何度も首を縦に振る。
途端、はぱぁっと顔を輝かせた。
「私、ここに入院というか、泊まらせてもらってるからいつでも来てね!」
「お、おう」
「じゃぁまた明日!」
タタタッと軽やかな足取りで医院の入り口に立つ女性へ向かう途中、は肩越しに振り返って番神へ手を振る。
それに応え、と女性が院内へ入ると番神も木陰を離れた。
明日もまた彼女に会える。
そう思う番神の口は緩み切っていたが、彼がそれに気づくことはなかった。
番神と別れたも明日も一緒に過ごせると思うと嬉しくて、にこにこと笑顔を浮かべている。
いつになく上機嫌の妹分を見て、看護師の未はニヤニヤといやらしい笑みを作った。
「さっきの彼、ちゃんのいい人?」
「えっ!?いや、その、今日会ったばかりで……とっ友達!です!」
「ふぅぅぅぅん?体つきも歳の頃もよさそうだったけどなぁ」
「かっ体つきって……破廉恥ですよ!」
「破廉恥って何を想像したの?ほらほら、お姉さんに言ってみなさいよ」
「っ~~!!」
番神の何を想像したのやら、顔を真っ赤に染めて声にならない声を上げる。
初々しいその反応に未は瞳を細めて笑った。
「そんなに真っ赤だと先生が発熱を疑うわよ」
「うぅぅぅぅぅ……」
「ほらほら、頑張って冷まして」
「はい……」
元はと言えば未のせいなのに、とは口をへの字に曲げた。