三.赤から白に変わる足
暖簾の先は脱衣所で、番神は壁際に並べられている脱衣箱(ロッカーのようなもの)の前に立つ。
脱衣所には番神を含め数人の裸の男がいたが、は臆することなく番神の隣に並ぶ。
ちらりと彼をうかがえば、怒っているのかむっすりとした表情で斑模様の胴着を脱ぎ始めていた。
腰差胴乱を外し、上着を脱いだ番神の上半身を見ては感嘆の声を上げる。
「うわぁ~」
「黙れ。何が『うわぁ~』だ」
「師匠の筋肉、すごいですね!」
「……うっせェ」
元々露出の高い胴着だったので胸板や二の腕の逞しさは知っていたが、その下の腹筋まで綺麗に六つに割れていたのだ。
は着物と襦袢を解き、自分の真っ平な腹部を手で上下に擦る。
「僕のお腹も師匠みたいに、ひぃふぅみぃ……むっつに割れますか?」
「おー、割れる割れる」
「頑張ります!!」
勝手に頑張りな、と思いながら下も脱ぎ、全裸になった番神は二人分の手拭いを持って洗い場へ向かう。
置いていかれたは、慌てて脱いだ着物や襦袢を丸めて脱衣箱に押し込み、番神の引きしまった尻を追いかけた。
板張りの洗い場には体を洗う際に使用する湯の入った水桶が設けられている。
は、そこでお湯をすくっている番神に近づき、初めて見る湯屋の水桶を覗き込んだ。
「お魚いませんね」
「いるわけねぇだろ」
金魚鉢を見つめる猫のようなを番神は一刀両断で切り捨て、お湯の入った桶を片手にその場を離れる。
は見様見真似で近くの桶を手に取ってお湯をすくうと、すでに体を洗い始めている番神の元へ向かった。
は、番神が洗い粉を包んだ手拭いで体を擦る様を見て頷き、ぺたんと床に正座をして手拭いを持つ。
そして逆の手で桶のお湯を腹にかけ、手拭いで軽く擦った。
「あっ」
胸から腹へ二、三度擦りつけたが、の小さな手に洗い粉の包まれた手拭いは大きく、腹との摩擦で引っ掛けるようにして落としてしまった。
落ちた手拭いは捲れ、包んでいた洗い粉が床に散らばる。
「おいおい、何してんだよ」
「落としちゃいました」
「はぁ…………洗ってやる」
洗い粉を両手でかき集め始めたに、番神の口からは大きなため息が漏れた。
確か湯屋は初めてだと言っていたが、もしかしたら洗い粉で体を洗うことも初めてなのかもしれない。
そう思ってしまうほどはぎこちなく、汚くて臭かった。
とにもかくにもまずは頭から洗うことに決め、番神はの体を抱えて自分の前に座らせた。
何も告げず、手ですくったお湯を目の前の頭にかけると、ひゃぁと間抜けな悲鳴が耳に入る。
番神は鼻でフッと笑い、を背後から覆うようにして小さな両手をそれぞれの手で掴んだ。
の掌には先ほどかき集めていた洗い粉が付着している。
それがもったいなくて、番神は操り人形のように手を動かして彼女の頭にわしゃわしゃと洗い粉を擦りつけた。
は勝手に動かされることが面白く、キャッキャッと子猿に似た声を上げる。
何が楽しいんだと思いながら、今つけた分では足りないので手拭いから洗い粉を掴み、小さな頭に追加した。
(すげぇぬるぬるだな)
しばらく洗っていないのか皮脂で油膜でもできているかのように、の髪の毛はかなりのぬめりがあった。
もしかして虱もいるのでは、と髪の毛を掻きわけて頭皮を注視したが、幸い虱はおらず、番神はほっと胸を撫で下ろす。
細い首に負荷をかけまいとなるべく丁寧に洗っては流しを繰り返し(お湯が目に入ったとの小言は無視した)、ようやく指通りのよくなった髪の毛に妙な達成感が生まれて番神は口角を上げた。
「次は体洗うぞ」
「わぁ……頭がするするします!」
「お前、髪の毛洗ったことねぇだろ。脂がすげぇ」
「ごめんなさい、いつも川で流すだけで……」
「……これからはちゃんと洗え」
「はい!」
背後から聞こえた番神の声は予想外に優しく、は安心して大きく返事をした。
続いて番神は手拭いを取ると洗い粉が零れないように包み直し、の左肩を手で押さえて彼女の背中を擦る。
それにしてもこの体はあちこちの骨が出っ張っていた。
肩、肩甲骨、背骨、腰骨――肌も田舎の貧しい村育ちにしては異様に青白く、見るからに痛々しい。
思わず番神は眉を寄せ、口を開く。
「……だっけか。今いくつだ?」
「十二です」
「十二ィ?!」
「?」
番神の素っ頓狂な声に、は疑問符を浮かべて振り返る。
そんな彼女を丸い目のまま見つめ、番神は顔を歪ませた。
あばらもその形がわかるほどに浮かんでいる。
手を伸ばしての胸の下に触れると、彼女は身をよじって笑った。
「くすぐったい~」
「…………」
本人はけらけら笑っているが、番神は笑えない。
のことは七つか八つかそのくらいだと思っていた。
それほど体は小さく、与えられていた食事も生命を繋ぎとめることができる程度の量だったと推測された。
の骨ばった体を見ながら、茶店での様子を思い出す。
あっという間に団子を食べて番神の食いさしも欲しがっていた。
口に出さなかったのは、餓えがにとっては“普通”だからだろう。
そう思うと彼女に対して冷たく当たるのも気が引けてきて、番神が少しは優しくしてやろうと思った時だった。
はおもむろに番神の股間に手を伸ばし、そこにぶら下がる男性の象徴をむんずと鷲掴みした。
「イ゛ッ――?!このクソガキ!!」
「んぎゃっ!」
突如襲ってきた激痛に声も出ず、番神は実行犯であるの頭にドゴォッと拳を落とす。
は番神のイチモツを放し、両手でじんじんと痛むつむじの辺りを押さえた。
「痛いです……」
「そりゃこっちの台詞だ!なに考えてんだよ?!」
涙声で不服そうに呟くに番神はガッと吠え、ズクンズクンと痛みが走る股間に手を当てた。
よかった。引き千切られていない。
手加減を知らない子どもの握力は、時として大人を傷つける兇器になりえるのだ。
イチモツの無事を確認し、手の甲で額の脂汗を拭っている番神の股間をつぶさに観察し、は口を開く。
「あのおじさんのおちんちんは硬くて上向いてて……師匠のは、なまこみたいな手触りでした」
「お前はもう二度とイチモツの話をするな」
(なまこちんちん……)
「返事ィ!!」
「はい!!」
番神の平常時のイチモツに心奪われていたは、洗い場に響く怒号に反射で返事をする。
正直なにを言われたのかわからなかったが、声色から番神が怒っていることを察し、聞き返すことはできなかった。
お互い痛い思いをしながらも洗い終え、浴槽で体を温めた二人は脱衣箱の前へ戻って着替えを始める。
風呂上りはさすがに清潔な物を身に纏いたい。番神は胴着ではなく深緑の着物に袖を通した。
一方ではすっぽんぽんのまま番神が買ってくれた着物をじっと見つめていた。
お揃いのような緑の着物は質が良く、が着ていたペラペラの木綿の着物とは比べ物にならない。
は顔をほころばせ、隣の番神を見上げた。
「師匠、ありがとうございます!」
「?……あぁ」
いきなりの礼に何のことかと思ったが、彼女が嬉しそうに手にする着物を目にして合点がいく。
玩具の方が喜びそうな年頃だがそれも十分は衣食住があってこそだ。
いつかも玩具が欲しいとねだってくるだろうか。
(いや、そこまで一緒にいるつもりはねぇ)
やっと襦袢を着始めたを横目に、番神は決意を固める。
ある程度肥らせてから、どこかの町で子どもを欲しがっている夫婦にでも押しつけよう。
もし、その夫婦がをまた女衒に売ったら――いや、引き渡してからは無関係だ。がどうなろうと知ったことではない。
そこまで考え、番神はちらりとを見下ろす。
は番神に買ってもらった着物を身にまとい、手にした足袋をじっと見つめていた。
「……」
「……」
「それ、履かねぇのか」
いっこうに履く気配を見せないため番神が尋ねると、は眉を下げた困り顔で番神を見上げた。
「履きたいんですが、足の血がついちゃう……」
「血ィ?」
なにおかしなことを言っているんだと疑問を抱きつつ、彼女の小さな足へ目を落とすと確かにところどころ赤く染まっている。
湯船に浸かって血行がよくなったからだろう。道中にできた傷から血が滲み、買ってもらったばかりの足袋を汚したくなかったのだ。
(面倒くせぇなぁ……)
一方で返り血を浴びることが多い番神は、の躊躇う気持ちがわからず、厭味ったらしいため息をつく。だが、自分が買い与えたものを大切にしたいという気持ちは悪い気がしない。
番神は自分の荷を背負い、口を開く。
「おい、荷物をまとめて抱えろ」
「……?はい」
足袋を履かなくてよいのだろうかと疑問を持つが、師である番神に逆らうことはしない。
は散らかしていた自分の荷物を風呂敷に包み、落とさないようにしっかりと胸の高さで抱え込んだ。
「しっかり持ってろよ」
「わっ!!」
言うと同時に番神はの脇腹を両手で挟んで持ち上げる。
いきなりの浮遊感に驚いたは、短く悲鳴を上げてとっさに右手を番神の首に回してひしっとしがみついた。
子どもにぴとりと密着された番神は眉を寄せるが、黙って脱衣所に設けられた二階へ続く階段を上る。
二階は客の休憩所となっていて、番神たちのほかに二人の男が囲碁を嗜んでいた。
パチ、パチ、と碁石を打つ音が響くなか、番神は外の景色を見ることができる格子窓の近くでを引き剥がし、畳に座らせる。
「足、見せてみな」
「はい」
番神はの向かいにどっかりと胡坐をかいて座り、差し出された今にも折れそうな右足首を左手で掴んで軽く持ち上げた。
足の裏は少々皮膚が擦り剝けているだけで出血はしていなかったが、指先はところどころ赤くなっている。番神に引きずられながら歩いた時に擦ったり、躓いたりしたのだろう。
(洗う時は気づかなかったぜ)
手拭いが触れても、お湯に浸かっても、は痛みを訴えることはなかった。
もしや痛覚がないのでは――そう思い、番神がのふくらはぎをつねると「いたっ」と小さな悲鳴が上がる。
どうやら人並みに痛みは感じるようだ。
おそらく入浴の時は痛みを我慢していたと思われる。
(ガキらしくねぇなぁ)
子どもはわがままで癇癪を起こし、痛かったりひもじかったりすれば泣き喚く――そういうものだと思っていた番神は、何も言わないに“子どもらしくない”印象を抱いた。
入浴前に泣いていたが、番神に直接不満をぶつけてはこなかった。
子どもらしくないというよりは、文句や不満があっても何も変わらないと諦めているのかもしれない。
(俺がガキだったころとは正反対だぜ)
番神は胴乱から軟膏の詰まった薬籠(やくろう)を取り出して蓋を開けた。
「それ……お薬ですか?!」
「そうだが、なにを驚いてんだ」
「ぼっ僕に薬を使ってくれるんですか……?」
「足袋が履けねぇって言ったのはてめェだろうが!いちいちうるせぇ!」
「ぅっ……」
が度々投げかけてくる問いに苛立った番神が怒鳴り声で黙らせる。むしろうるさいのは番神の方だと言っても過言ではない。
ビリビリと鼓膜を震わせる怒鳴り声に、は肩をすくめて口を噤んだ。はただ、高価だと思われる薬を自分のために使うのか確認したかっただけなのだが……。
が静かになったところで、番神は軟膏を右の人差し指ですくい、エノキのような指に塗り始めた。番神の太い指がぬるぬるとした触感をまとって指の間に潜りこんでくる。
「きゃはっ……きゃははっ」
普段他人から触られることのない足は敏感で、くすぐったさからは体をひねって笑い声を上げた。
子ども特有の耳にキンキンと刺さる甲高い声は不快だが、番神は手を止めずに左足にも塗り始める。
「きひひっ……やめ、て……んひぃ~」
左足は特に弱いようだ。
座っていられなくなったは後ろに倒れ、笑い声の混ざった奇声を上げる。
それを聞いていた他の客がくすくすと忍び笑いをもらし、いつの間にか不快な気持ちが消えた番神も自然と口角を上げていた。
芋虫みたいに畳の上でもぞもぞしているが離れないよう、番神は右手で左足首を掴んだまま、左手で胴乱の中にあるほつれた手拭いを引っ張り出す。
それは、もともと怪我をした時に使っているもので、すでに裂かれた形跡があった。
両手が塞がっているため、番神は手拭いの端を噛み、犬歯を食い込ませて勢いよく引っ張った。
ビリリッ――
布の裂ける音が聞こえ、は首をもたげて番神を見る。
番神は細く裂いた生地を手慣れた動作での親指に巻いていた。
常日頃から自分で怪我の手入れをしているのだろう。その手際の良さには口を丸く開けて見入っていた。
親指の保護を終え、残りは四本。番神は再び手拭いを裂き、面倒になってきたため四本まとめて巻き始める。
足袋は親指と人差し指から小指の四本に分かれているため、まとめて巻いても問題はないと判断したのだ。
「別に俺の足じゃねぇしな」
「なんですか?」
「なんでもねぇ」
ひとりごとを耳聡く聞きつけたにつっけんどんに返し、番神は左足から手を離す。
は畳に手をついて体を起こし、治療された左足を見て顔を輝かせた。
「ありがとうございます!これで足袋が汚れません!!」
「声がでけぇ。こっちも巻くぞ」
「はい!」
番神は釘を刺しても変わらない大きな声に舌打ちをし、手拭いを二回裂いてからの右足を掴んだ。
右足も左足同様に手際よく治療を施され、は直角に膝を曲げて座り直す。
両足を揃え、ほつれた手拭いだった生地に包まれた指を見つめる。
指を上下にぴょこぴょこ動かし、はだらしなく顔を緩ませて笑った。
他人から傷の手当てをされた記憶は今までなく、嬉しさから勝手に顔の筋肉が緩むのだ。
「おら、さっさと足袋を履け」
「はい!」
番神は手拭いや塗り薬を胴乱にしまいながら、が畳に置いている風呂敷包みを顎でしゃくる。
そんな横柄な態度も気にせず、は大きな声で返事をして風呂敷の結び目を解いて足袋を手に取った。
中古だが充分に綺麗なそれを広げ、足元に持っていき、つま先をゆっくりと入れる。
傷口は痛まず、指先から足裏、踵に足首までさらさらとした生地に包まれ、は白くなった自身の足を愛おしそうに見つめた。
足袋など故郷の村でも一部の大人しか履いていなかった。それを今、自分が履いている。
「師匠、ありがとうございます」
「おー」
怪我の治療はもちろん、改めて着物や足袋など買い与えてくれたことを含めては礼を告げた。
もっとも番神には伝わらず、気のない返事が返ってきただけだったが。
「そろそろ出るぞ」
「はい」
立ち上がる番神にならっても立ち上がり、風呂敷の端を再び結んで抱える。
すでに休憩所の出入り口付近にいる番神に置いていかれないよう、は小走りで駆け寄った。
トントンと階段を下りる番神に続き、落ちないように足元に目をやりながら一段一段下る。
歩きどおしだった足は痛むが、足袋に血が滲むことはなかった。
2024.06.30